事業継承せず、勤務医であり続ける理由

事業継承せず、勤務医であり続ける理由仕事のこと
事業継承せず、勤務医であり続ける理由

現在の時間は6時50分です。

お天気は曇り空ですね。

いつもよりブログの記事を書く時間が遅いのは、仕事の雑務を少し片付けていました。

院内のInstagramの運営に関わっているのですが、なかなか思うように仕事が回らないため困っています。

経営者はこういったスタッフへの指示から、会計処理、臨床までをすべてをこなしていくのでしょう。

改めて経営者はすごいなぁと感心してしまいます。

事業を継承する夢はあった

自分が歯科の仕事に従事していると、「先生は院長として開業はしないのですか?」と患者さんやスタッフによく聞かれることがあります。

父が同業ということもあり、そこで開業する気配がないことに疑問を思っている方が多いみたいです。

私の幼少期時代、父の職場のスタッフの方や取引先の方から「事業を継いでくれる可能性があるご子息に恵まれて幸せですね」という声を多く耳にしてきました。

そういった環境もあってか、何気なく自分も事業を継承すると思うようになっていました。

大学に行き、国家試験も合格し、研修医になっても、父の事業を継承し発展させていく夢はずっと持っていました。

こういった設備にして、患者さんにはこういった治療を提供していきたい。

そういう夢が。

しかし、現実はとても難しいものでした。

認めてもらえない自分。そして父をライバル視。

研修医を経て5年目を過ぎたころだったでしょうか。

以前から考えていた事業の継承について具体的に考えるようになりました。

ただ、単に継ぐと言っても子供ではないので、しっかり将来について考えていることを、親に知ってもらう必要があると思いました。

そのために、社会人だったら企画書ならぬ、経営計画書を作らねばいけないなと考え、すぐ実行に移すことにしました。

はじめは経営計画書ってなんぞやっというところからアプローチしていき、計画書の作り方やマーケティングの方法について本を読んで学んでいきました。

父が開業している場所から半径2kmの世帯数、人口、年齢層、ライバル医院の数と専門分野等について調べ、M・E・ポーターの「競争の戦略」という古典のマーケティング本を参考に、業界において優位かつ安定して生活するための戦略を私なりに練ってみたりもしました。

その下調べした内容と私がやりたいことを、経営計画書に落とし込み、ある時父に見せたことがあります。

父はその経営計画書を見ると、「甘い」と一蹴し、もっと今の患者さんを大事にすることを考えろと私に諭しました。

確かにまだ29歳の時に1人で資料を集めて作った最初の計画書は甘かったかもしれません。

しかし、自分で下調べして経営計画書に落とし込んだことを認めて欲しかった自分がいました。

ここの資料の作り方はこうした方が良いとか、このビジョンは良いかもしれないけど具体的にじゃあどうやってこのビジョンを達成しようと思ってるの?等の助言をもらえるならいざ知らず、ただ単に「甘い」と一蹴して終わらせたことに怒りも覚えました。

こんなことで怒りを覚えるなんて、まだまだ子供ですよね。

自分でもそれはわかっています。(笑)

でも、純粋に親に認めてもらいたかったのです。

ただそれだけなのです。

親は私の技術や患者への説明は丁寧で素晴らしいから歯科医師としては認めていると何度か言ってくれたことがあります。

お世辞かもしれませんが、素直に嬉しい気持ちはありました。

しかし、私は親の背中を追うだけじゃなく、追い越したかったのです。

私は、いつしか親をライバルでしか見れなくなりました。

すると診療において、私は勝手に親と自分を比較し、自分の貧弱ぶりを感じるようになりました。

それをバネにして、なにクソと頑張ってみたりもしましたが、ついに私は親に勝てないことを痛感し、父と同じ場所で働くことが徐々に辛くなってきてしまいました。

医院建て替えの見積額を見て怖気付く。

そもそも、私が経営計画書で考えたビジョンは3世代に渡る幅広いニーズを網羅した「予防」を中心とした診療を行っていきたいと思っていました。

しかし、当時父が経営していた医院の年齢層は高齢者層が圧倒的に多かったと思います。

両親は、現在の年齢層を手厚く診ていけば、生活は安定すると思っていました。

私は高齢者診療は嫌いではなかったのですが、若い年齢層が圧倒的に少なかったため、将来的にライフステージがシフトした時に収入が一気に減るかもしれない点をとても危惧していました。

両親は、若先生として私が勤め続けたら、若い年齢層の流入もきっとあると思っていたようです。

また、医院を建て替えることでも新規患者を獲得できるとも考えていたと思います。

実際、私と父との間で医院の建て替えについて、大手のハウスメーカーを自宅に呼び、間取りや見積もりを出してもらったことがあります。

そして大手ハウスメーカーから提示された見積もり額に私は愕然としました。

そんな借金できないよー!と心の中で叫んでいた覚えがあります。(笑)

私は、自分の技術力でその莫大な借金を返済し続ける自信がなく、ついに私は怖気付いてしまいました。

診療方針の違いによる葛藤。

父が考える診療方針に沿って診療を行わなければならないのは、一勤務医として当然だと思います。

ですが、そんな日常臨床の中で、私は自分が行った治療に納得できていませんでした。

大学時代から研修医に至るまでに学んだ基本に忠実で学術的にエビデンスが確率した医療と父の臨床で培った経験の医療に差異が生じていたのです。

私は、なるべく父の診療スタイルに合わせるように努めてみました。

同じ診療スタイルにすれば、職場のスタッフも対応に困らず、患者にも迷惑がかからないはずだと思ったのです。

しかし、結局だめでした。

私の中で診療スタイルの違いによる葛藤とわだかまりが徐々に大きくなり、診療するたびにとても苦しく辛くなってきたのです。

すると仕事を楽しいと思うこともできなくなってきました。

「仕事がつまらない・仕事が合わないと思っている人は、仕事に責任感を感じていない証拠」という格言を本で読み、自分に言い聞かせ仕事を続けてもみました。

しかし、一向に仕事が楽しいと思うことができませんでした。

「仕事を責任持ってこなさなければ、楽しいとは思いません」と瀬戸内寂聴さんもどこかで言っていた気がしますが、どうしても私には難しかったのです。

おそらく精神的に未熟だったのでしょう。

あっ、今も未熟なんですがね。(笑)

そして、ついに私の胃はオーバーヒートを起こしてしまい、体調を崩してしまいました。

私は父の診療スタイルに歩み寄ることはできず、徐々にスタッフや両親にまで閉鎖的な態度を取るようになってしまいました。

振り返ればそれは人として本来あるべき態度ではなかったと思います

勤務医のまま、楽しむ人生。

結局その後も、さらに色々なことで父とは折り合いがつかず、事業を継承するに至りませんでした。

父には事業を継承すると明言していたにもかかわらず、それができなかったことに父には申し訳ない気持ちと後ろめたい気持ちでいっぱいです。

心に傷を負わせてしまったとも思っています。

私と父は、お互いの意見を尊重し合い、親子で事業を発展させていくこともできたかもしれません。

血が繋がっているからか、頑固な性格も同じで、お互いに歩み寄ることができませんでした。

事業継承の夢は私の中で終わりましたが、後悔はありません。

歯科医師だから開業という選択は一択ではないと思っています。

もっと多様性のある生き方をして良いと考えるようになったのです。

だから、今は勤務医のまま、色々なことをチャレンジしてみたいと思っています。

登山を続けて、もっと地球との距離を近づいてみたいし、コーヒーの可能性をもっと広めていきたい、そして本との時間ももっと大切にしていきたい。

そんな自分の人生を楽しんでいきたいと思っているのです。

そして、そのような私の考えに賛同してくれる相方に本当に感謝しています。

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