若くして死ぬことは、とても悲しいことだ。
私は、死ぬことに恐怖を感じた時があったが、ある時を境に死ぬことに恐怖を感じなくなる時がある。
それは、“人生に疲れて死のうと思った時”と、“今を最大限生きている時”だ。
「死」という恐怖
「死」に対して恐怖を感じた時というのは、幼少期の頃だ。
子供の頃の私は「死にたくない。」ただ単純にそう思っていた。
「死=怖い」という直結した考えを持っていた。
何故そのような考えを持っていたのか。
「死」に対して、「痛い、苦しい、辛い」という概念があったからかもしれない。
ドラマや映画の中では、銃で撃たれて死んでしまう表現を見ることがある。
また癌になって酸素吸入機をあてがいながら死んでいく表現や、水に溺れて死んでしまう表現なども。
そのように「死」が起こるまでの過程の中で、苦しみに耐えなければならないことがあるから、「死」というものに恐怖を感じていたのかもしれない。
その考えは間違ってはいないが、「死」そのものが「恐怖」と直結して定義をすることはできない。(ついそのように考えてしまいがちなのだが)
ある本で、「死」は「無」に等しいと書いてあった。
確かにその通りだと思う。
もし私が死んだら、私の生命活動が止まって、私自身は何も感じないただの有機物になる。
「死」は、ただ単に一つの生命体がこの世に存在しなくなるだけ。
死んだら、痛みや苦しみすらも何も感じないのだ。
人生に疲れて死のうと思った時
両親に対して「死にたい」と軽く漏らしたことがある。
生きることに疲れたからだ。
死ぬことに全く恐怖を感じなかった。
いつでも死ぬ準備はできている。
そのような境地に達していた。
だから、両親に対して軽々しく「死にたい」と言うことができた。
その時、私は次のように考えていた。
何故私はこの世に生を受けたのだろうかと。
しかし、一向にその答えを見出せなかった気がする。
生まれた理由を聞いても誰も答えてくれないし、両親の偶然の産物によって生まれたこの“命の価値”は、自分では理解することはできなかった。
答えが見つからなかったので、私は生きることよりも、「死」という選択をしようと考えたのだ。
今も私が生き続けているのは、兄弟や親戚の支えがあってこそだが、身の回りのものみただけで「これ首に刺したら死ねるかな」といったことを考えていたので、危ない領域に達していたと思う。
“命の価値”については、自分が子供を授かりたいと思った時、やっと気づくことができた。
今だから思うのだが、当時私が「死にたい」と両親に言った時、両親はとても悲しく辛かったのではないかと思う。
今を最大限生きている時
人生に疲れて死のうと考えた時期から脱したら、ある時を境にまた死の恐怖を感じなくなってきた。
今を最大限に生きるようになってからだ。
1日1日を相方と共に悔いなく生き続けようと努めていると、いつ死んでも良いように思えてきたのだ。
なるべくなら長く生きていたいが、悔いなく生きているからこそ、「死んだら仕様がないね」という境地に達しているのだと思う。
だから、今を最大限生き続けることが、「死」を克服する方法だとも言える。
人生は有限であること。
人生は有限である。
人生が無限に存在したら、生きることが辛くなると思うから、死という存在は無くならないでほしい。
私たちがこの世に生を受けた瞬間から、常に私たちの隣り合わせで死は存在する。
だからといって、死がいつ起こるのかは知りたくない。
人生の終わりが訪れる時期がわかったら、今を生きることができないだろうから。
しかし、例えば私が癌になったとして、余命がある程度わかっているならば、相方にしておきたいこと、子供にしておきたいこと、2人が何不自由なく暮らせるように整えてあげたいことがあるから、その時は余命宣告してほしいと思う。
矛盾しているだろうが、それは時と場合によると言わせてほしい。
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