自分の人生感ならぬ音楽感

好きなもの・こと

ムッシュかまやつの「我が良き友よ」、GAROの「学生街の喫茶店」や、かぐや姫の「神田川」、伊勢正三が歌う「22才の別れ」、山本潤子が歌う「あの素晴らしい愛をもう一度」、因幡晃の「わかってください」、山口百恵の「秋桜」。

これらは、父の車の中で聞いてきたBGMベストの抜粋です。

我が家では、伊豆の今井浜海岸に海水浴に行くのが毎年の恒例行事でした。

渋滞を避けるために、朝の4時に父と母は私たち子供らを車に乗せ、自宅を出発するのですが、結局、小田原から続く海岸沿いの国道で渋滞にはまってしまうのです。

幼稚園の年長さんだった私が、渋滞の車中でやることは、海岸沿いの海を眺めることだけでした。

1年のほとんどを埼玉の内陸で過ごしていると、車窓越しに見える真っ青な海が新鮮なものに感じるのです。

その自然の珍しさから、私は高揚して、車中ではしゃぎ回ります。

しばらくすると、両手とおでこを車窓につけて、真っ青な海の上でキラキラ輝く白波を眺めたり。

波の上に浮いている人の数を数えたりするのですが。

それもだんだんと飽きてきて、次第におでこや手の脂の跡が、車窓についていることに興味が湧くようになり、徐々に海すらも見ないようになります。

最終的には、車中で流れているBGMをただただ聞くことしかできなくなってくるのです。

冒頭に抜粋した昭和のフォークソングを無限ループで聴き続けるのです。

するとどうでしょう。

昭和のフォークソングを聴き続けたおかげで、海水浴に行く車中はこの音楽なしでは生きていけなくなりました。

年齢が重なるにつれ、「お父さんいつもの音楽かけて。」が、「おやじいつもの音楽かけないの?」と変化し、昭和のフォークソングを渇望するようになってきたのです。

このハングリー精神は、スピッツやGLAY、L’Arc〜en〜Cielやモーニング娘。などのJ-POPが、友人達の会話で台頭する時代になっても、私の中で生き続けました。

J-POPの流行に乗ったら、個性がない、特別な存在になれないと感じたからか、本当は新鮮なJ-POPに身を任せて友人達と語り合いたいのに、昭和のフォークソングをアンチテーゼに掲げ、「我、昭和のフォークソングの“生き字引”なり。」などと称し、フォークソング好きを豪語するのです。

ただ聴いたことがある、あるいはサビの部分だけ歌えるただの物知りなだけで、フォークソングの歴史や歌手の生い立ちなどはまったく知らないのに。

そういったことを豪語したからか、結局同じ趣味が合わないと仲間から外されてしまっていました。

特別な存在として扱われたかったのに、ハブられてしまうのです。

終いに、私は仲間からハブられることが寂しくなって、“生き字引”の愛称も軽々と捨ててしまいます。

そんな私には、昭和のフォークソングを愛する資格はなかったかもしれません。

単純に人間関係を繋ぎ止めるために、豪語していた愛称を軽々捨ててしまった自分を今でも恥ずかしく思い、そんな時代を猛省しています。

しかし、私は今でも昭和のフォークソングを愛しています。

もちろん、今もフォークソングの歴史や歌手の生い立ちなどは詳しくは知りませんよ。

けれど、耳に残っているフレーズがCMやBGMで流れるだけで、どこか自分の中で懐かしい気持ちが芽生えてきます。

あの頃の懐かしい思い出。

海外沿いの国道を走る車中の思い出が蘇ってくるのです。

時々、音楽が人に及ぼす影響が計り知れないことを痛感する時があります。

そう。

私の人生感ならぬ音楽感の始まりは、昭和のフォークソングであり、そして今でもそれが生き続けています。

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