最近、ありがたさを感じたことがある。
先日、『ぐらすらんど』という店舗のロゴをデザイナーに作成してもらおうと考え、そのデザイナーの選定を相方にお願いした。
現在使っているロゴは私が作ったため、素人っぽさがあり、使い続けていくのには気が引けてしまう。
嫌いではないのだが、もっとセンスの良いロゴにしていき、みんなから愛されるようなものにしていきたいのだ。
そのセンスが私にはないため、相方にお願いした。
そしたら相方は私のイメージと見事にマッチさせたデザイナーを選定した。
相方は私の頭の中を見透かしているかのように、私の期待にいつも応えてくれる。
とても頼もしく、いつも側で支えてくれて「ありがたさ」を感じた。
「ありがたさ」は漢字で「有難さ」と書く。
「有ることの難しさ」から「有難さ」であり、感謝念を示す言葉だ。
① めったにないこと。まれなこと。② 尊く、おそれ多いこと。
こういった意味がある。
何気ない日常の中で、どれだけこの「ありがたさ」を感じることができるだろうか。
私は、その尺度を「ありがたキャパシティ」と名付けることにする。
そして、その「ありがたキャパシティ」をどれだけ増やせることができるかによって、人の人生は明るくもなり、また暗くもなると思っている。
例えば。
朝起きたら、隣に相方がいてくれること。
「おはよう」と挨拶を交わしあえること。
一緒に朝食を作り、ラジオを聴きながらテーブルを挟んで朝食が取れること。
食器を洗ったら「ありがとう」と言ってくれること。
「行ってきます」「行ってらっしゃい」と挨拶を交わしあえること。
夕食を作ってくれ、私の帰りを待っていてくれること。
「ただいま」「お帰りなさい」と挨拶が交わしあえること。
一緒に映画をみたり、読書の時間を過ごしてくれること。
「おやすみ」と挨拶を交わし、手を繋いで眠れること。
当たり前のようで当たり前ではない。
何気ない日常の中の「ありがたさ」が、1日の流れだけでこんなにもたくさん詰まっているのだ。
日本の人口は2021年時点で1億2500万人存在する。
その膨大な“ヒト”という動物が存在する社会の中で、互いに愛し合える存在を見つけることは奇跡に近いと思う。
だから、相方が自分を信頼し、愛し続けてくれることは本当に「ありがたい」ことだと思う。
愛するということが、これほど人を変えることだとは相方に出会うまで私は気づくことができなかった。
そういった何気ない日常の中で「ありがたキャパシティ」がどんどん増えていくと、その一方で私の中に“恐れ”という考えが頭の中に芽生えてくる。
相方がいない世界を考えてしまい不安に襲われるのだ。
私の母は父より先に旅立った。
父が嘆き悲しみ、息子たちがいないところでむせび泣いていた気持ちが、今となって痛いほどわかってきた。
しかし、そんなことを考えていたら、今という時間を楽しく生きることができないこともわかっている。
先のことを考えてしまい、今という時間を大切にしないことは、限りある人生の中で非常にもったいないことだと思う。
だからこそ、今という時間を楽しく生きていくためにも、私の周りに存在する「ありがたさ」を常に噛み締めて生きていきたい。
なんだが瀬戸内寂聴的な記事になってしまい、不本意だけども、今日はこれで終いにする。
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