相方の記憶
11年前、相方は12階病棟で入浴介助中でした。
大きな横揺れが起こった瞬間、介助中の患者と抱き合い、地震の怖さを2人で凌いでいたそうです。
揺れがおさまったら急いで浴室から出て、スタッフや他の患者がいるフロアへ。
人がいることに少し安堵したそうですが、震源はどこなのかテレビのニュースを見てみると、想像もできないような光景が目に飛び込んできました。
その安堵は氷のような怖さに再び変わったのです。
相方は、慌てて実家にいる両親の携帯に電話をかけました。
両親の実家は宮城県にあり、被害に遭っていないか安否確認をしたのです。
しかし、国による通信規制による影響で、一向に電話がつながりません。
友人スタッフからも両親の携帯に何度も電話をかけてもらったそうですが、一向につながりませんでした。
相方は、泣きながら携帯を耳にあて必死に電話に出てくれるように祈っていたそうです。
そんな光景を上司の師長が見ていたそうで、師長は相方に向かって「泣いてるんじゃない!」と一喝したそうです。
師長は「泣いてる場合ではありません。気をしっかり持ちなさい。」といったことを伝えたかったのかもしれませんが、その時の相方の精神状態ではその言葉はただ相方の気持ちをえぐっただけになってしまいました。
相方は、今でもその師長のことを思い出したくないと言っています。
私の記憶
11年前の今日。
私は大学5年生だったと思いますが、卒業シーズンで大学は休校となっていました。
休日は映画三昧の時間を過ごそうとTSUTAYAのDVDコーナーで旧作を10作品選んでいる最中でした。
その時、突然大きな縦揺れのドンッとした揺れが起こりました。
これはただの地震じゃないと私は瞬時に感じました。
今まで生きてきた中で、背筋に冷たさが走る怖さを感じたからです。
左右の棚からは次々にDVDが落ちてきて、ここにいてはまずいと思い、非常階段を使い屋外へすぐさま非難しました。
屋内の商業施設にいた他の客やお店で働いていた人達も、みんな外に避難していました。
揺れがおさまったら、すぐさま私は兄に電話しました。
当時は兄と一緒に暮らしていたので、兄の安否確認を試みたのです。
しかし、電話は全くつながりませんでした。
『なんで出ないんだよ。こっちは心配してのに。』と心の中でイライラが募りましたが、周りの状況を見るとどうも様子がおかしいことに気がつきました。
周りで避難していた人達も家族の安否確認をしようと電話をかけていましたが、その人達も一向に電話がつながらなかったのです。
その中で、旦那さんに必死に電話をかけている奥さんの姿がありました。
「全然繋がらない!」
そう言いながら携帯の画面を見ては耳にあてる行為を何度も繰り返し行なっていました。
奥さんの足元で子供が笑顔で遊んでいるのとは裏腹に、次第に奥さんの顔の雲行きが怪しくなってきました。
焦りと不安の表情が次第に滲み出てきたのです。
震災の記憶と向き合うこと
東日本大震災が起こってから今日で11年目を迎えます。
今年から政府主催の追悼式典は開かれないようです。
未だ避難者が全国で3万人を超えるなか、年々被災地への支援は細りつつある事も懸念されます。
また、震災の記憶を後世に残していくことに関しても問題は山積しているようです。
政府の支援が細りつつある中で、震災の記憶を風化させないために、震災を乗り越えた人たちによる語り継ぐ作業が続けられています。
その一方で、震災の記憶を後世に残すことに反対している方もいるようです。
震災の記憶を思い出したくない。
震災の記憶を早く忘れたい。
PTSD(心的外傷後ストレス障害)など、心に傷を負ってしまった人の心情を察するに、その気持ちは十分に配慮しなければいけないと思います。
そういった2つの価値観の狭間の中で、震災の記憶をどのように後世の残したら良いか。
表現を丸めて伝えるなど、試行錯誤に苦労している話を耳にしますが、とても難解な作業だと感じています。
だからといって、対話を止めることはしてはいけないと思います。
問題から逃げても問題は解決できないと思っているからです。
問題に向き合い、対話を続けることが、一筋の光明を見出す唯一の方法だと思っています。
東日本大震災から11年目を迎えた今日。
改めて、震災や津波で亡くなった方々のご冥福をお祈り申し上げます。
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