秋葉原通り魔事件
2008年。7人が死亡、10人が重軽傷を負った痛ましい事件が起こりました。
私がちょうど御茶ノ水の大学に通っていた頃の話です。
メイド喫茶が流行する絶頂期で、秋葉原にはよく足繁く通っていました。
そんな折に起こったのが、秋葉原通り魔事件です。
事件当日、私は自宅でテレビを見ていました。
すると緊急速報が流れ、テレビが切り替わり、歩行者天国で賑わう道路上には痛ましい光景が広がっていました。
今まで見てきた秋葉原と全く異なる映像。
私は呆然とテレビの前に立ち尽くし、状況を整理するのに時間がかかりました。
この事件以後、歩行者天国は銀座や新宿でもしばらく廃止になったのではないかと思います。
平成の日本で起こった悲惨な事件の1つとなったわけです。
死刑制度の賛否
そんな秋葉原通り魔事件の加藤死刑囚の死刑が昨日執行されたようです。
多くの人は、このニュースをきっかけにこの事件を思い出した方も多いのではないでしょうか。
死刑制度に賛否はあるかと思います。
ちなみに、私は死刑制度に対して否定的な見解をもっています。
上記のサイトのように、内閣府の世論調査によれば、「死刑は廃止すべきである」と答えた人の割合は9.7%で、「死刑はやむを得ない」と答えた人の割合は80%にも及ぶので、私の考えはマイノリティ寄りのようです。
多くの世論が、死刑制度の維持を望んでいることに、私は驚きました。
古川法相も「法務省主導でなく、多くの国民がその必要性を感じ、幅広い観点から議論がなされることが適切。そのような議論と動向には、関心を持ち注視したい」とコメントしたのは、こういった調査が背景にあるからでしょう。
人が人の命を奪うこと
「単純に殺したかったから。」
「生きるのが嫌になったから、誰かを殺せば死刑になれると思った。」
そういった動機で私の家族が無差別に殺されてしまったら、どういった心境になるのだろうか。
殺した相手を憎み続けるのだろうか。
はたまた行き場のない気持ちだけが、ただただ私の中に残ってしまうのだろうか。
相手が死刑となったら、自分の気持ちは救われ、気持ちはおさまるのだろうか。
もしかしたら、1人残された私が、残りの人生を生きていく中で、生きがいを見出せず、絶望して自殺するのだろうか。
当事者になっていない私が死刑制度の是非について述べるのは、おこがましいことかもしれません。
しかし「当事者になってみないとわからない」と言って、意見を述べることを避けたくもありません。
偽善に思われるかもしれないし、理想主義と言われるかもしれない。
そういう葛藤がある中で、私が思うのは「人が人の命を奪うことはあってはならない」ということです。
身内が殺されたから、殺し返して良いのか?
否、これが倫理に反していることはなんとなく理解できると思います。
では、身内を殺され、残された家族が、犯人を直接殺すことができないので、国家が法の名の下に死刑を宣告して良いのかと考えると、それも倫理的に違うように私は感じます。
死刑制度は、単純に形が違うだけで、人が人の命を奪うという行為自体に変わりはないように思うのです。
「明日死刑執行したいので、この書類にサインして下さい。」と言われたら、あなたはどうしますか?
古川法相の胸中を考えたら、とても辛い選択だったのではないかと思います。
(赤の他人の話なので、そんなことを微塵に思わない方もいるかと思いますが。)
サイン1つで人の命を奪えてしまう世の中になっているのです。
おそらく私はサインすることはできないでしょう。
人が人を殺して良いという命令を下す世の中が、当たり前のようになっていることに私は違和感を感じます。
「悲惨な事件を起こしたから、死刑は当たり前だ。」とする考えは、そこに人が人の命を奪っても良い倫理が発生してしまっているように思うのですが、皆さんはどう思いますか?
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